2016年 06月 15日
大瀧詠一
一昨年の冬に亡くなった歌手の大瀧詠一さん、その企画展を覗いてきました。
彼の生い立ちと、亡くなられるまでの音楽活動の軌跡をパネル形式で紹介していました。
大瀧詠一氏、現在の奥州市江刺区に生まれ母子家庭という環境で育ったという
母親が教師をしていた関係で何度も転校を繰り返したそうです。
生前ラジオのトーク番組で、彼が宮沢賢治について話されていたので、少し気になってはいましたが
やはり、少しばかり接点があったようです。
彼は番組の中で、「自分は宮沢賢治の童話(風の又三郎)のモデルになった小学校に通っていた」
と言っていたのですが、学校のある場所が江刺区の米里らしいのです。
この地区には、人首小学校と木細工小学校があるのですが童話のモデルとなると
おそらく、木細工小学校の方ではないでしょうか!
いずれ、賢治に興味を持っていたのは間違いなさそうです。
その後、彼は数度の転校をへた後 花巻北高校へ入学されました。
下宿先は花巻の鍛冶町だったそうで、賢治の生家のそばだったようですネ。
しかし、この学校では授業料を全てレコードの購入費に充ててしまったため一年で退学処分になったそうです。
当時から相当の音楽バカだったのでしょうね (笑)
そういえば、彼の代表作に(さらばシベリア鉄道)がありますが、なんとなく賢治の匂いがするのは私だけでしょうか?
ちょっと無理があったかな! ^^
大瀧さんは亡くなられる三年ほど前に、自ら車を運転して自分が学び育った土地を訪ね歩いたそうです。
特に種山ヶ原には思い入れが強かったそうで、三度も足を運んでいたようですね!
長年の盟友だった作詞家の松本隆さんが追悼の辞で「北へ帰る十二月の旅人よ」とおっしゃったそうですから
やはり、イーハトーブは心の故郷だったのでしょう。
なんか、しみじみとしてしまいました
ご冥福をお祈りします。 -もりおか啄木、賢治青春館ー
展示室内は撮影禁止です。
by warutorawa
| 2016-06-15 00:30
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